昭和48年(1973年)前後のころ
篤志解剖全国連合会 第八代会長 江藤 盛治 昭和59(1984)年3月27日、栃木県下都賀郡壬生町の基地から一つの遺体が掘りだされ、同町の獨協医科大学で司法解剖が行われた。「病死ではあるが、暴行をうけており、そのためにその死が早まった可能性もある」旨の鑑定が出され、刑事事件となった。実は、その県のさる病院での患者に対する病院職員が起こした二件の暴行殺害事件疑惑に関係していた。そのうちの一件は数年前の事件で、既に死亡直後に火葬されており、もう一人の患者が前年の12月に死亡し、その墓地に埋葬されていたのである。二人とも火葬されていたら暴行の事実は闇に消えていたかもしれない。 獨協医科大学は昭和48(’73)年に創設された。それまで医科大学がなかった同県では、『解剖』という言葉自体になじみがなかった。医学教育に欠くことのできない解剖学実習のためのご遺体が不足する可能性がきわめて高いことを訴えた記事を新聞に掲載して貰ったが、それに対する反応は鈍かった。 開学後のことになるが、同医大付属高等看護学院事務長の元小学校校長先生から「私は死んだらすぐ土にかえして貰います。身体の解剖なんてとんでもない。」と聞かされて愕然としたことを覚えている。当時壬生町では、土葬の率がかなり高かったと聞く。病院で亡くなるとすぐ自宅に遺体を運び、墓地に埋葬するか、火葬するかどちらかだったようだ。『病理解剖』なんてとんでもない話だった。 東京の医大でご遺体の収集に苦労してきた私は新設医大の開設準備を命じられたとき、解剖学実習用のご遺体の確保が最重点課題だと考え、全学挙げての組織『解剖体対策委員会』を設置して貰い諸官庁への折衝を開始した。また『白菊会』に加入させていただき、『篤志解剖全国連合会』の会員にもなった。 成果は遅々として上がらなかった。毎年文部省から「解剖体の収集数と病理解剖数の増加にさらに努力すること」との指摘を受け続けた。模索は継続された。5年めごろから少しずつ軌道に乗って来たように思う。自治体の協力を得、新聞・自治体広報紙などの記事が増え、さらには白菊会・篤志解剖全国連合会の力添えなど無くしては考えられなかった。 昭和48年9月東京都O.H.氏が白菊会に入会され(会員番号3084)、本学献体登録者第一号となられた。ちなみに氏は昭和56年6月に死去され、昭和57年度に実習に提供させて頂いた。同年10月26日文部大臣感謝状が、奇しくも本学第一号として学長からご遺族に伝達された。謝辞を捧げご冥福を祈りたい。 昭和58(’83)年5月25日に公布されたいわゆる『献体法』は、一般のかたがたの献体に対する認識を大きく変えるきっかけとなり、また一方、死後の遺体の処置についての意識もさまがわりしつつあるようで、解剖体収集状況は開学当時(’73年)に較べて格段に改善されていると聞く。今昔の感。 なお壬生町では衛生上の配慮もあり、現在極力火葬を勧めるようにしているよしである。
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